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高橋信次 (宗教家) : ミニ英和和英辞書
高橋信次 (宗教家)[たかはし しんじ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [たか]
 【名詞】 1. quantity 2. amount 3. volume 4. number 5. amount of money 
: [はし, きょう]
 【名詞】 1. bridge 
: [まこと, しん]
  1. (adv,n) truth 2. faith 3. fidelity 4. sincerity 5. trust 6. confidence 7. reliance 8. devotion 
: [つぎ]
  1. (n,adj-no) (1) next 2. following 3. subsequent 4. (2) stage 5. station 
: [そう, しゅう]
 【名詞】 1. sect 
宗教 : [しゅうきょう]
 【名詞】 1. religion 
宗教家 : [しゅうきょうか]
 (n) religionist
: [いえ, け]
  1. (suf) house 2. family 

高橋信次 (宗教家) : ウィキペディア日本語版
高橋信次 (宗教家)[たかはし しんじ]

高橋 信次(たかはし しんじ、1927年9月21日 - 1976年6月25日)は日本の宗教家。会社経営者。ハードウェアエンジニア
新宗教宗教法人GLA創始者。高電工業株式会社の創業者であり、初代社長。人道科学研究所所長。
== 略歴 ==
長野県南佐久郡平賀村(現在の佐久市)の農家に男3人・女7人の10人兄弟の次男として生まれた。10歳の終わり頃(1938年9月)から現在で言う「幽体離脱」的な疑似体験をするようになり、身体とは別な意識を「もう一人の自分」と呼び、その現象に幼心に疑問を持ち続けた。1940年に平賀尋常高等小学校(現・佐久城山小学校)を卒業〔長野県佐久市立平賀小学校『平賀小学校誌』343頁 昭和14年度卒業生名簿に高橋春雄〕し、野沢中学校(現在の長野県野沢北高等学校)に入学〔野沢北高記念誌編集委員会『高原の日は輝けり 野沢中・北高史』283頁 昭和15年入学生の集合写真(昭和18年11月)に学友で後のGLA理事佐藤要〕。その後は本人談によると、中学を二年生(14歳)で中退し、当時の日本陸軍の陸軍幼年学校(仙台陸軍幼年学校)に進学。ついで陸軍士官学校に進学・卒業して、航空士官として出征し、終戦の翌年の1946年に復員。
帰郷後、上京して大学入学資格検定試験を通過、日本大学工学部(現・理工学部)に通い電気工学を中心に学んだが、卒業論文が教授に不評だったため卒業資格は得られず、中途退学した。大学在学中の1952年(25歳)に大田区上池上に五、六人の従業員と共に自動制御装置を開発する為の工場を借りて仕事をするようになる。
一方で、神秘世界の探求も行うことで「もう一人の自分」を求めたが、従来の宗教書はあまり読まずに独自の考えを続けた。その結果、「生と死」・「人生の目的」・「苦悩」、そして「それに対する祈りとは何か?」等、人生全体に対する疑問が増えて行き、知り合いの親しい仏教の僧侶に「あの世というのはあるのですか?」、「何故お寺を建てるのですか?」等と質問したが正直に応えるはずもない僧侶のはぐらかしに納得出来なかった。キリスト教会で牧師の説教を聞いたりしたが、「イエス・キリストを信じる者は、救われる」という話で、信じなくては救われない/地獄に落ちる、という教えに不合理さを感じ、離れた。また、キリスト教以外にも世界真光文明教団などいくつかの新宗教団体をも訪れているが、そのいずれにも納得が行かず、オリジナルな宗教の必要性を求めていったという。
1954年12月には、日本橋の電気店で働いていた青果商の娘・一栄と27歳頃に結婚。1956年長女が生まれる。後の継承者、GLAの代表となる高橋佳子である。その頃から予言はほとんど的中する等のフレコミで人を集め、相談に来る人でアパートが溢れる事も何度かあったという。二度の事業失敗を経て、1962年(35歳頃)に個人商店として大田区大森にコンピュータ機器を開発する高橋電工を設立、1964年(37歳頃)に高橋電工を会社組織に改め高電工業株式会社を設立し〔高電工業 沿革 〕〔代表取締役社長に就任。同時に自身もハードウェアを開発する工員として医療器具製品を開発する。ほか、八起ビル管理株式会社社長、人道科学研究所所長等を兼務した。
そして、1968年頃(40歳頃)から霊現象が生じるに至り、義弟を通じて「ワン・ツー・スリー」や「フワン・シン・フワイ・シンフォー」と名乗る霊からの連絡を受けると、執着を捨てた安らぎの境地に到達した気分になれたという。その後、それらの霊魂は後のGLAの教義で言う「守護・指導霊」に位置付けた。「フワン・シン・フワイ・シンフォー」は、高橋の「守護霊」であるとし、後にイエス・キリストその人であると設定された。また、「ワン・ツー・スリー」と名乗ったとする霊魂は、高橋の「指導霊」であるとし、後に歴史上のモーゼ/ヘブライ人奴隷であると設定された。
その後、彼らからの指導を受けて悟りの境地に到達したと自負する高橋は、宗教家としての道を歩みその経験を著作として著し始めるとともに、人々の過去・現在・未来を見通すというフレコミ等で人を集め、また肉体を持たない「」を霊視(文字通り霊を目視すること)し、これとコミュニケートしたり、人々についているという霊を取り除いた(ただし、「神理」を口説き、その非を悔い改めさせるスタイルがメインであった)等と、自身の講演会において数多くの奇跡を残したと自画自賛した(高橋信次『心の発見 現証篇』参照)。
古代エジプト語ヘブライ語、5世紀の中国語、古代マガダ語マガダ国)等を少しは話せるとしたが、高橋は、これらはあくまで人々を救うため、天上界で予め約束されていた(また証明としての)「方便/布教」であるとし、特に興味本位的に過度にとらわれることを嫌った。
これらは、モーセの時代にも、イエス・キリストの時代にも、ゴータマ・シッダールタ(釈迦牟尼仏)の時代にも、現れた現象だと設定されている。
著書や講演会で高橋は「慈悲」と「愛」、そしてその実現のための実践として「八正道」、「反省」(キリスト教的には懺悔・悔い改めに相当するとされる〔高橋信次『心の対話』59-62頁「聖書と輪廻について」参照〕)を布教活動ツールにしていたといえる。
また、仏教、ユダヤ教、キリスト教、は天上界(いわゆる「あの世」において特に調和された世界とされる。以降を参照)の指導によって作られたものであり、その精神は、「法」(自然の法則、宇宙の法則)に発するものであり、時代背景によってモディファイされているが本質は変わらない、GLAも同類であるとした。
会社経営や教団運営、信者の個人指導や著作の執筆等により、高橋の睡眠時間は一日3-4時間という生活(不眠症)であったともされ〔高橋信次『心眼を開く』53-55頁「一日一生」参照〕、以前から自分の生命に関わることが48歳の時に起こると予告していた〔。晩年には、1976年3月に白浜の研修会にて自身をエル・ランティーであると宣言〔。同年6月4-5日東北研修会の『新復活』『太陽系の天使達』を最後の講演とし、同6月25日午前11時28分、48歳で死去。GLA総合本部は佳子が継承、2代目主宰者となった。高電工業株式会社は一栄が社長に就任、引き続き医療機器・バイオ関係装置の開発・製造を行っている。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「高橋信次 (宗教家)」の詳細全文を読む




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